森岡正博×宮台真司×武田徹 なぜ日本人は結婚しなくなったか 第2部 ノーカット版 Part.2

Part.1の続き

森岡それで、一つ言いたい事があるんだけど、最近、姜尚中の「悩む力」を読んだんですよ。これが凄く違和感を感じた。宮台さんも一緒にお仕事する機会があると思いますが、彼は凄くマッチョなんですよ。こんな様な事を言っているんです。

「今の若い男性を見ていると、彼らは非常にあっさりしてて、人間関係に深入りもしない。恋愛やセックスにおいてもそうなんだろう。そもそも本来、青春というのは他者との間に狂おしいほどの関係性を求めようとするものです。だけど、今の若い人はそういうむきだしの生々しいことを極力避けようとする人が多い。これは人間関係におけるある種のインポテンツなんじゃないかと思います。」

これを読んだ時、結構なショックとちょっとした怒りを覚えた。インポテンツの使い方もそうですけど、ポテンツがないということだけじゃなくて性的な意味間もある。そしたら、そもそも挿入できない事が悪い事かというとこにも引っかかるけど、それ以上に、例えば男女関係にしてもあっさりしていて、パサパサしているっていうことが、ここまで否定的に言われなきゃいけないのだろうか?と思うんです。
   
これを読んで自分を振り返ってみた時に、やっぱり草食系のあっさりとしたガツガツしないお付き合いをしていたわけで、そういう頃の自分を全否定される思いがするのです。私はだから今の若い子達に対して、さっきも言いましたが、草食系でもいいんだよと。それに加えて、こういう言説はあかんというのが私の意見。文脈上、草食系が駄目だって言ってるわけでしょ。自分は草食系でいいんじゃないかと思っているような人を上から金槌で叩くような、そういう感じがする。


武田:森岡さんの言いたいことはよく分かるんだけど、姜さんの気持ちを私なりに代弁してみると、例えばネットカフェとかでカップルシートに入って、それぞれがずっと漫画を読んでるというのがある。性愛に繋がらないということもあるんだけど、一方で出会ってないに等しいわけですよね?性的な行為に関心が無い事が逆に出会いの可能性まで絶っちゃてるようなパターンもあるような気がする。


森岡多分、姜さんはそう仰るかもしれないし、その理屈はそれで理解は出来る。そいういうような説明を聞いたときに、やっぱりこちらは「いや、でも・・・」と言いたくなる気分があって、一つは何かというと「セックスしたら出会えるんですか?」という問題です。つまり、そういう風に考えた時に、世代論争にあんまりしたくない。したくはないけど、上を見てて言いたいことがある。


武田:別にネットカフェでセックスしろと言ってるわけではなくて(笑)、一緒の場所にいるんだったら互いに漫画読まなくてもいいじゃないとは思いませんか?


森岡いや、とは思わないです、私は。話をちょっと戻すと、我々の上の世代の中にあったある種の幻想は、暴力とセックスにおいてこそ人間は真に出会えるという幻想を持ってた人たちがいた、そういう時代があったんです。ある時期にそういう映画もたくさんあったじゃないですか。私はやっぱりこれは幻想だという風に言っていくべきだと思う。そんなことはあるかもしれないけど、一般的には無いかもしれないんだよと。その意見の背後にイデオロギー、幻想があるのであり、それはある種の男性達を辛いところに追い込む言説として機能しますよ。ということを私は言いたい。

武田:別々の漫画を読んでて、会話が一切無くてもいいじゃないかと。

森岡そこでなくてもいいじゃないかということです。別の場所では会話しているかもしれないし、仲良くご飯を食べているかもしれない。

武田:関係が無かったらネットカフェに一緒にいかないですもんね。


森岡そうです。だから、月に何回かしらないけどベッドの上にいるかもしれないし、それはカップルの関係性の個性であると思う。あとは、そういう話もよくあって、さっきも雑魚寝の話がありましたが、もう一つの例としてデートレイプ。DVとかがあるわけですよ。それがマッチョ文化の中で問題化されてこなかったということがある。暴力を受け取る女性も、愛を失いたくないからそれを維持するというところにはまっていくということがある。それがようやく表に出てきましたよね。それに比べたら、ネット喫茶で漫画を読んでいたほうがいいじゃないですか。

私の感性からすると、愛とマッチョの名のもとに暴力が行われてる関係よりも漫画を平和に読んでいる方がずっと良い。


宮台:姜さんは知らないだけかもしれない。僕も自分の嫁さんと一緒に漫画喫茶行って、何時間も手分けをして読みますけども、手分けというのは「僕、これ読むから後で読んでどうだったか教えて」というので、わざわざネットカフェとか漫画喫茶に行って話をする必要は無いですよ。だって、基本的に読みに行くんだから。それは一緒に映画に見に行くのも同じで、それを享受した後、どうだった?という話をする。よくあるのは僕が読んだ事のある漫画を読んでもらって、向こうが読んでる知らない漫画を僕が読んでどう思ったかを交換するみたいにするというのが普通の漫画喫茶とかの用法のような気がします。

武田:それは姜さんが言ったんじゃなくて、私が言った例なんですが・・・(笑)

宮台;あぁ!そうですね。ごめんなさい(笑)

武田:それはいいとして、一方で考えると漫画読みたいんだったら個室でいいんじゃないかと思うんですが、でもやっぱり一緒に読みたいんでしょ?

森岡それを言うんだったらデートコースで映画を見に行くというのと一緒で、あれだっていちゃいちゃしてるわけじゃないでしょ。

武田:それはでも同じ映画を見ている、僕の話は違う漫画を読んでる。


宮台:それはいいんですよ、どうせ後で情報を交換するということがあるから。でね、やっぱり森岡さんの直前の話を聞くにつけても草食系って結構難題だなぁという気がします。
女の子との付き合いで何を目標にしてるかというイニシャルステップの部分で、実は結構自己本位的な勘違いがあって、それは単にマッチョ主義にそまっているからという以前に最初のボタンのかけ違いが始まっているように思う。

マッチョ主義ということについて言うと、取材をする経験があったのでマッチョ主義に対しての幻滅というのが、ある時期から正直に女の人の口から語られるようになった。逆に言えば、女の人から見て、付き合っている男に女性性が宿っているということが物凄く肯定的なポイントになってきた。僕自身も、ある時期から、僕のいいところは女性性が宿っている事だとはっきり女の人から言われた。女性性が宿ってるとかっていうのは意味が分からない人がいるような気がするんです。

森岡さんや僕の言っていることを聞いて、女性性の宿る男子が女子から見てもっとも近しい存在になりうる。女性性・・・何のことか全然わかんないな。っていう可能性があると思いませんか?


森岡そういうディスコミュニケーションというのは、実は起きているんでしょう。特に上の年齢の人たちから雑魚寝の話をされても本気で分からない男性っている。伝わってないわけですよね。だから、今の女性性の話なんか雑魚寝よりもっと難しいから伝わらない可能性も絶対ある。

ただ、さっきも言ったように社会とか文化が徐々に変わっていっているから、今難易度は高いかもしれないけど、これから難易度も下がっていく可能性もあって、マッチョ主義に毒される前の段階で女の子と普通に一緒にいるみたいな時間が持てて、それが普通になっていけば男性の方も女性的な内面からの世界の見方というのを学習する機会が増えるかもしれない。


宮台:確かにデートレイプ、ある種の暴力ってある時期から物凄く増えている気がするのは、若い男女の性愛行動がある程度活発化して、出会い系があることが背後にあると思うんですが、メル友もそれなりにいる。彼氏や彼女がいてもメル友がいるみたいなことがある程度有り得る。だから疑心暗鬼になって相手のケータイを見るということがなされる。

その時にいわゆる束縛系と言われるタイプの男の子が増えていて、僕が知ってる範囲でも30分おきに居場所を報告させられたり、自分がいる場所の写メを撮って送ることを要求されたりして監視されながら生きている女の子がいる。
これも明らかに暴力的な振る舞いだと思うけど、それは愛の証だと、お前の全てを知りたいからと言う訳ですよ。

そういう男の子たちって、まぁ昔もいたのかもしれないけど、色んな人間達が性愛に関わるようになったせいなのかもしれないけど、そういう現象が見聞きする範囲では増えていて、その男の子たちにどういう言葉を届かせたらいいのかな?と。彼らはセックスをする相手、恋人がいるかもしれないけど、どう考えても女の子が望ましい状態にあると思えないし、開放してあげたいと思うし、その男の子のある種の不自由さ、たえず疑心暗鬼になって束縛して大丈夫か。と胸をなでおろすことを承認の代替物として受け取っているとすれば、これはこんなに貧しい事はないと思う。じゃあ、彼らにどういう言葉を投げかければいいのか。


森岡それは難しいですね。今回、私が考えられたことというのは草食系でもOKよ。というところまでなんですよ。今仰ったような男の子はまずい。では、どうすればいいのか、草食化できるのかというのはこの次の問題だとしか言いようが無いですね。でもそれは大きな問題だし、今の話をお聞きしてて思ったことは、お互い束縛するというのは昔は結婚という制度が代行してくれていた。今はそれから外れつつあるわけですが、自分らで生で担わなきゃいけなくなっているというのが一つある。

もう一つは、もうちょっと薄めて考えればこういう気持ちって恋愛していたら多かれ少なかれ、皆思い当たる事があると思う。特に恋愛の真っ最中というときはそうで、暴力を振るう、完全な束縛までいっていないけれどもそういう面を持ってしまうということは一般的にあって、暴力の問題というよりも恋愛という構造の問題の可能性もあります。恋愛って構造に入ると構造がそういうことを要求しちゃうというシステムの問題が一方にある。こういう風に考えた方が、いい解答を導き出せるかもしれない。

ただ、それだけじゃ駄目で、それが明らかに病理的になっている場合が当然あって、宮台さんの仰ったのは多分そっちのほう。それに対しては広い意味で治療的に考えていくべきフェーズがあると思います。思いついたことだけを言ってますから、うまくいえないんですけれど。


武田:最後に今いった話と関わると思うんですけど、こういう本をお出しになる時に、モテたかったら草食系になれというメッセージと一緒にこの本が流通する事になりがちだと思うんですが、それはある意味で諸刃の剣的な。


森岡それはありますね。それも考えました。著者としては、この本は多くの女からモテることを目指しているわけじゃないんだということで内容は一貫しています。しているけど、それがどう流通するかは著者の手から離れています。メッセージが流通していく時に、こうすれば色んな女からモテるという風に活用する人が出てくるかもしれない。それは本当に諸刃の剣だし、そこは答えは当然無いですね。

もし、私のメッセージが草食系OKということではなくて、肉食系の道具として使われていたらそれはアインシュタインの原爆に対する気持ちみたいになるわけですよ。気持ちだけじゃなくって、大袈裟に言えば社会的な責任うんぬんみたいなこともあると思います。もちろん、著者としては色んな手を打ってますけど流通は勝手にしますから、それに私も加担しているわけなのでご指摘の点はあるといわざるを得ない。けど、それは出来るだけそうじゃない方向に持っていくとしか言えない。ただ、私はモテを追及したいという人を否定しているわけではないんです。ここも慎重に区別しておきたい。それも一つの人生だと思うし、性の形ですから、それはそういうものがあるということだけですね。

私が今、危惧しているのはこの本がそういうことを意図していないのにモテのツールとして誤って使われるということに関しては違うんじゃないのと言い続けたい。
   
武田:この本がどう受け取られるか楽しみになってきますね。


宮台:僕の方からの最後のメッセージとしては、さっきも僕の個人的な体験として話しましたが、大学に入ってから女の子が男の子に媚びているのを見て、凄くショックを受けて、女の子達の純粋性に関する幻想、妄想を抱いていた自分を責めたし、女の子に対しても責めた。というか女の子って汚い存在なんだなと思ったりした。その後に自分がどう思うようになったかというと、虚数という話をしましたが、例えば好きな女が浮気をするっていうこともあるし、僕に幻滅をするってこともあるし、僕が相手に幻滅するということもあるし、そういう双方的な幻滅というのは当たり前のように存在しているけど、でもそれって引いた視線から見れば、別に純粋さを否定するものではないという風に捉えられるように僕はなった。

こういうことを言うと誤解があるんだけど、僕はある時期スワッピングの取材を長いことしていた時がある。これは実は世代現象、ある世代までしかない現象で、そっから後はオージーが主流でカップルで関わるスワッピングは減るんだけど、それを取材している時に思った。それは、純粋さとはなんであることかについての、あるいは純粋というかイノセンスでも構わないんですが、本当に毒に触らない、汚いものに触らないのがイノセンスだ。っていうイノセンスもあれば、これもフランス文学的主題だけど、色んな汚いものに触るし、汚れた事もやるけど、でもイノセンスだっていう水準のイノセンスもあって、その意味で言えば、絶えず監視して縛って、女の子が自分通りでい続ける事によってその女の子をイノセントだっていう風に思うようなステージというのは、語弊があるかもしれないが言うと、ステージが低いと思うんです。囲い込む事によって何も見ない、何も触れない。だから汚いものは知らないっていうのは、イノセントっていう意味には阿呆という意味もありますけど、それは阿呆!ということなんじゃないかっていうことです。

それは今僕が書いている本と少し関係することなんですけど、男、女と共に経験を積むにつれて一筋縄じゃいかないってことが分かってくるし、期待はずれにベタに直に向き合うっていうこともだんだんしなくて済むようになる。 森岡さんが先程仰った暗黙の意味みたいな「終わりよければ全てよし」、つまり最初はどんなに醜い出発点でも、途中でどんなにどん底に陥ったとしても、最後にそれに意味があったなと思えるような経験が訪れるかもしれず、後から振り返ると結構年をとった人間達がよく思うんですが、失敗が今の自分を作っていると皆さん言うわけですよ。あるいは不幸があって今の幸いがあると多くの人が言う。そういう意味で言えば、昔から年寄りが若い人に言ってる事だけども、今、お前に起こっていることの意味も、もう少し時間が経てば分かる。今自分が感じている、こういう意味しかないんじゃないか。っていうことは、それはそれでその通りかもしれないけど、時間が解決する問題。あるいは世界が解決してくれる問題で結構あるというふうに思ったほうがよいのかなと。

ただ、自力救済、あるいは自分を責めて、自分が劣っているからこうなんじゃないかっていう発想も自力救済的な発想で、今起こっている事は不幸だと評価し、今生じている幸せを幸せだと評価するような感受性。それがすごく人を縛るなという気がします。ちょっと宗教的な話になって申し訳ないんだけども。


森岡それは恋愛の話をしていると、そういう所と絡まってるから宗教的な話になるのは必然。今の話をお聞きしてて最後に思うのは、束縛の話が出ましたけど、それについては自分の中で答えは最終的に出ていないんですが、今から振り返って思うのは、やっぱり恋愛する時期って束縛をする時期がプロセスとして初期の段階であるんじゃないか、つまり束縛をすることが人間の自然みたいな時期がきっとあるような気がして、その時は暴力と感じるのはまずいですけど、極端にならなければお互いにベッタリする時期を過ごしていいんじゃないかと、お互いがそれでOKと思ってれば。

ただ、それがずっと続いていくのはまずい気がして、それを通り越した時にもっと続くか、破局するかという別れがくると思うんですけど、そこで続くとすれば、理想的なことを言えば、お互いを束縛から段々話していって、お互いが自由になっていく。それが一つの恋愛の進み方の終局形態。

だから、お互いがお互いを束縛を解きあっていくけど、信頼関係を保てるっていうふうにどう持っていくかというのが理想的だけど、一つの形かなっていうのが今の私の感覚です。


武田:すごく思ったんですけど、我々はほとんど同じ年齢なんですよね。それで、ある種世代の産物みたいなところがあるような気がして。上の世代は戦後の新しい世の中を作ろうとしたわけですけど、やはりある種マッチョイズムの連続性の中にいるところからなかなか逃れられなかった世代であると思うんです。そういう世代を上に見ていて、しかも自分達はメディアが変わったりとかそういうことで、性意識が変わったりとか性愛の構造が変わるような状況の中をずっと生きてきた。それで色々考えさせられた。そういう経験があった。そういうような人生を半世紀ぐらい色々経験してきた結果として、色んなことを今の若い人たちに伝えようという思うような情報を我々も持ち得たし、我々自身もまだ恋愛とか結婚の問題というのは当事者でもあると思うんです。だから色々な立場で問題に関わらなきゃいけない。そういう世代であるが故の森岡さんの本であるし、議論であったような気がします。

最初は結婚率が下がってるとか、恋愛が難しいとか話しになりましたけど、結婚率が下がったから悪いとかそんな簡単な結論ではなくて、数字を見ることは大事だけど、そこから議論していく必要性がある。今回はそういう話が出来たんじゃないかと思っております。


森岡さっき世代の問題と言ったけど、我々の世代が生み出した言説も限界を感じる事があって、私はこういうことを引き続き受け取って考える次の世代、特に男性学的なテーマとしては次の世代が出てきて欲しいし、今も出てきてると思う。それで形が見え始めたら、巧く我々から奪って、勝手に作っていって欲しいと思います。