「荻上チキ・Session-22」あいちトリエンナーレ芸術監督・津田大介氏がその意図を語る 一部文字起こし

http://tbsradio.jp/395979

荻上

「表現の不自由展」では、慰安婦像だけではなく、国内での表現物の展示が撤去されたり、抗議をされた経緯を持つ作品が展示されているということですか?

(津田)

そうですね。美術業界で話題になったニュースの中から、これがいいんじゃないかと「表現の不自由展」実行委員会の方々のキュレーションによって選んでいるということです。

荻上

津田さんが指示をしたというわけではないんですね。

(津田)

議論はしますけど、基本的に決定権は彼らにあって、それを尊重するというスタンスでやってきました。

元々、表現の不自由展というのは、2015年に民間の貸ギャラリーで行われたもので、撤去された経緯とともに現物を見ることで、来場者が表現の自由に関して思いを馳せて議論のきっかけにしたいというのがコンセプト。

愛知県にしても僕にしても、それぞれの個別の作品のメッセージについての賛否は明らかにしない。

荻上

公金ということに着目するのか、そうではなく論争的なテーマこそパブリックアクセスが獲得されるべきなのか、そうしたことを真正面から議論してほしいというところもあるのですか?

(津田)

仰る通りで、展示内容についてどこまでパブリックセクターが介入出来うるのか、それが表現の自由の根幹に関わってくること。県は表現の自由の現在的な状況を問う展示の趣旨を認めているわけであって、個別の作品の賛否を示しているわけではない。

行政が何から何まで口出して展示の可否を判断するような仕組みになってまうと、検閲にあたるのではないかという別の論点が生まれてくる。

公金を使っているから展示物の内容に責任を持つべきじゃないかという議論ももちろん有り得るが、そのラインは人によって様々。どこまでが認められるべきなのかという議論を喚起したいという趣旨もある。

 
抗議について

(津田)

批判が県の職員にも向いてしまっていて、抗議の電話が朝から深夜まで続くような状況。事務局の機能がマヒして、職員のメンタルもギリギリのところまできているので、状況を変えたいと思って記者会見をした。

撤去するかどうかについては、僕個人の一存では決められない。実行委員会のメンバーとの協議や、大村知事との協議も必要で、できるだけ早く対応を決めないといけない。

 

歴史認識について荻上氏のコメント

少女像が批判の的になる背景に一定の歴史認識が共有されてしまっていることにある。

政府に対して抗議の意味で像を置くこととは別に、慰安婦問題は、性・女性の人権問題、あるいは戦時性暴力の問題として国際的に注目されているテーマでもあり、反日か否かというものではないが、反大日本帝国という文脈があり、その意味でなら反日といえ、大日本帝国的な思想に敏感に反応していくという位置付けもある。

少女像に対する反応も問われていて、今の日本を攻撃していると捉える向きがあるが、そう捉えるということは、大日本帝国と今の日本を連続的なものとして位置付けてしまっている行為。

一方の意見だけを展示するのは良くないという中立ぶった批判もあるが、歴史の問題として考えるならば、それは間違いで、歴史問題に中立というのはなくて、研究の蓄積によって出来上がっているもので、慰安婦なんていなかったと言えるような状況ではない。

 

“平和の少女像”はなぜ座り続けるのか (ffjブック)

“平和の少女像”はなぜ座り続けるのか (ffjブック)

 

 

否定と肯定 (吹替版)

否定と肯定 (吹替版)