Fate/Zero 1話 感想

久々のufotableTVシリーズ。個人的に期待している方向と違うタイプの作品で、Fateシリーズ完全初心者でしたが視聴。

ネットで少し補足を見ながらでないと把握しきれない部分がある内容でした。構成を年代順にせず、例えば逆年代順にして、ウェイバーのエピソードを最初に持ってくるだけでも世界観に入りやすくなるのではないかと思うのですが、ただエピソードが羅列してあるだけで、初見でもそれぞれのキャラに魅力を感じて貰おうとするような工夫に乏しい感じがしました。まあ、掘り下げはこれからに期待します。

設定に関しては、なんか雑なところがある印象を持ちましたが、多分これはあまり重要ではなく、お飾り的なものだと思うので、あまり深く考えないで、とりあえずバトルとドラマをメインに楽しむ姿勢で視聴していきたいです。

仮面ライダーOOO 総評「オーズ と まどマギ と 欲望 と 願い」

設定が雑なところもあったり、脱線が少しあって中だるみしているのに最後が駆け足的になってしまっていたり、予定調和の大団円的な終わり方で物足りないところもありますが、全体としてはとても楽しめました。また、普通に見て面白いだけでなく、批評しがいのある作品でもあると思います。

特に「魔法少女まどか☆マギカ」との共通点をいくつか見いだすことができ、実際両作品を絡めた二次創作ネタが多く作られていたので、同様に両作品を絡めた感想なり批評が出てくると思って楽しみにしていたのですが、今のところそういう批評はtwitterに極短い簡易なものが数件、ブログに一件あった程度でした。探し方が悪くて、あってもスルーしてしまっている可能性もありますが、単にまだ出てきていないだけなのか、そもそもまどマギを批評していたような層はオーズを見ていないのか。

我が儘ながら、私はまどかの感想でも書いたように、批評を書きたい欲望よりも読みたい欲望の方が強いので、何方か頑張って書いてくれると嬉しいなという感じなんですが、簡単に私が思ったことを書きます。

結論だけ言いますと、オーズという作品は「魔法少女まどか☆マギカ」の全体的な作品性を少し否定しているような側面があって、特にまどかの結末を否定している(まどかの想いは否定していない)と感じます。まどかは願い(オーズ的には欲望)を肯定しましたが、全体的に見ると後ろ向きというか、変に絶望感が漂っていて私は「魔法少女まどか☆マギカ」という作品をあまり好きになれませんでした。

一方、オーズはより強い欲望の肯定、正確には自分への欲の肯定があります。まどマギにはほとんどこれがなかった。正義感でさえも欲望に含まれ、自分の生き方の問題に回収されるという側面もあり、正義はどこにあるんだ感がある部分もありますが、この作品では他人を犠牲にしてでも欲望を満たそうとする者は基本的には淘汰されています(アンク含む)。

まず大きな例外は鴻上会長です。ウヴァの暴走によってビルごと吹き飛んだと思っていたんですが、ケロりとしていた。鴻上の目的はよく分からないところもあるのですが(そもそも鴻上の会社は何をしている会社?)、欲望による世界の再生を謳っています。鴻上はどちらかといえば社会的な領域の中での欲望の必要性を表していて、ここにはある種の残酷さも含みますが、社会、人類の発展のためには何らかの犠牲の発生はやむを得ず、人々が欲望をなくしてしまったら何も生まれないし、変わらない、未来がないということを突きつけます。

そして、その中で映司たち始め、人々の個の領域の中での欲望のあり方が描かれていきます。映司が欲したもの、それは力。その力は、途中で意識するようにアンク及びメダルを利用して手に入れますが、欲望が強くなっていき、周りが見えなくなり自分を見失っていきます。自分の手の届く範囲、欲望がコントロールできる程度の力、どんなに遠くてもどんな人にも届く力。まどかは結果的に後者を選び、神になった。映司は後者を選ぼうとして神になりかけたが、人間として世界と再び向き合うことになった。映司は何でも一人で抱え、自分の手、力で世界を変えることにこだわったが、最後に仲間、他人の力を頼ってもいいんだと真の気付きを得た。手の届く範囲は他人の手を借りて広げることができるし、欲望、願いが間違った方向にいっても修正してくれる。そんな存在、あるいは場の必要性が描かれると同時に、私たちのあり方が問われる。それが欲望による世界の歪みを正す一つの道であることを示しています。

まどかには残念ながらそんな存在はおらず、ほむらは引き止めようとしたが力が及ばなかった。ふと、この作品はまどかたちの結末を否定しているというよりむしろ、まどかが神になったことや他のキャラの行動を無邪気に肯定しているようなファンのあり方を否定している面があるのではないかと思いました。そして、それは42話の比奈の言葉と、最終回前の47話で知世子さんが比奈に語った言葉に集約されているのではないかと感じました。


さて、ここからはベタに不満などを少し書いていきます。

鴻上会長が最終回で語った世界の状況について。鴻上は「この飽和し、伸び悩む世界」と言いましたが、この作品で世界状況の描写はなかったように記憶しています。私たちが生きる現実世界のことをそのまま表しているのかもしれませんが、唐突すぎますし、鴻上が謳う世界の再生の必要性が伝わってこないので、ある程度はちゃんとその世界観を描いて欲しかったです。

次に真木博士について。面白いキャラではあるが、人物的にはあまり魅力がなく、ネタ要員、やられ要員になってしまっている感じがして、ラスボスとしてはしょぼすぎるところが。もう少し人物像を掘り下げて、ラスボスとしてもっと魅力的にするか、ラスボスにするのではなく、知世子さんや伊達さんによって心変わりし味方になる、あるいは心変わりしかけたところでグリード化し暴走して悲しい結末を迎えるというような展開がよかったなと思います。

最後は映司が進んだ道について。ラストで映司は旅をしていますが、その目的は何なのか?当初の夢であった世界の子どもたちを救う活動を再びしていれば、わかりやすく成長が見える終わり方になると思うのですが、そうはしなかった。最後のつぶやきからするとアンクを復活させようとしている?でも、それだと自分に生きる力を与えてくれた特定の存在のため(だけ)に生きてゆくという意味ではほむらとほとんど一緒で、個人的にはそれはどうなの?という、すごくもやもやした終わり方でした。こういうのは現代的な何かを表しているのでしょうか。アンクの割れたメダルを握りしめ旅をするというのは、アンクとの強い絆を感じさせ、やや女性ファン向けサービス的なところがあったりするのかもしれませんが。

簡単にと書いておきながら、こんな分量になってしまいました。新しく始まったフォーゼは、あと数話見たらお腹一杯になる感じがしているので、よほどストーリーかテーマが魅力的なものになりそうでなかったら見なくなるかもしれません。

輪るピングドラム 1話感想

最後のシーンを除けば、休日の朝にやっていてもおかしくないような話&女児向けアニメ的なギミックで構成されていて、シンプルといえばシンプルな内容。なので、色々と深読みできる要素はありますが、話については1話の段階では特に語ることがないというか、語りようがありません。

演出については、アニメにしか出来ないことを追究しようとしている感じで、遊園地的な楽しさ、華やかさがあり、飽きさせない作りとなっています。また、話の展開、流れが唐突な部分はあるものの、それをあまり気にさせず、視聴者を引き込む形に持っていくパワーのある演出になっていると思います。

ただ、ウテナを知らなかったり、アニメを見慣れていないような方、普通に物語を楽しみたいような方には、ある種この過剰な装飾は却って物語に入り込むのを阻害している面があるのではないかとも思います。特に回想の時に入る、電車の電子掲示板風の案内は、物語世界外の異質なもので、スタッフの存在を意識してしまい、冷めさせてしまうことも考えられます。

声優については、冠葉役の木村昴君が、感情が高ぶるシーンでジャイアンになってしまっていること以外は文句はありません。他のシーンでは全く気にならないので、もう少し頑張れば、頑張れさせればなんとかなるんじゃないかと思うのですが。

今後の展開について、3人、あるいは2人を中心とした内面的問題が主軸になり、その心の革命が描かれていくのかという予感もあるのですが、それではウテナとあまり変わらないので、それとは全く違う新しい幾原ワールドを見せて欲しいなと思います。

アニメ「C」  総評

お金を巡る話、EDがschool food punishmentということで、東のエデンを意識させる部分があり期待していたのですが、私にとって、訴えかけてくるものがない、単に金融をネタにしたあまり出来のよくないファンタジーでしかありませんでした。制作会社は違いますが、中村健治監督は、作品ごとに残念な感じになっていると思います。


私が見た感想のなかで、輪転機発動を「日銀による国債引き受け」と捉え、サトウの行動は現実にそれをやればIMFが止めることを表しているとし、「輪転機発動は間違い。この作品はそれを寓話的に描いた警世の作品である。」的なことを書いている方がいたのですが、その解釈が合っているかどうか、政策の是非は別としても、ミダスマネーは国債と捉えられるし、「現在の幸福のためだけに、未来を犠牲にしてはならない」というメッセージを読み解くことはできます。しかし、この作品はそれ以上の何か問うものがあるとは感じませんでした。これだけのことをこの時代にわざわざファンタジーを通して語る意義がどこまであるか疑問です。

先週の「白熱教室JAPAN」は、世代間の正義を考えるというテーマだったのですが、この作品は特別にそれを考えさせるものにもなっていません。それはこの作品で描かれる未来は、自分が直接関わる近未来だけで、更に未来が現在生きる人びとにも悪影響を与えるとなると、それを守ろうと思うのは、まぁ当たり前だろうと思ってしまうからです。

なのに、公共の正義を考えていると思っていた三國がそういう現実を全く見ず、最後にシスコンを吐露する形で「いずれ人類は滅びる。明日などどうでもいい」などと極端なことを言ったり、父親との確執に還元され、問題や人間性が矮小化されてしまったのに違和感がありました。

余賀についても、安定志向の内向き的な現実での個人の生き方が問われるという題目が途中から完全にどこかへ行って、いつの間にか物事を深く考えていて、その裏にある自己愛性にも意識的であるという「賢さ」を持った人間として描かれ、そういう人間が他にはいないという特別性を持って肯定されているのも何だかなあと思います。といっても、最後は考えに考えた上での行動というわけでもなくサトウの言うことを鵜呑みにして、感情的に動いているように見えて、7話で示した余賀の一面には何の意味があったのかと。真坂木に出会った時と、最後に別世界に出てきた時の反応も間が抜けていて、この作品は全体的に人物描写が雑な感じがします。

サトウは、何で常に飴なめてたり何か食べてたりさせたのか意図がまるで分からず、食べながら喋るので、聞き取りにくい部分があったり、不快さもあったりしました。そもそもの演技があまり上手くないというのもあるのですが、この声優の方、前からこんなだったかな。


世界感について。金融街そのものの存在理由が描かれていませんが、そこはまぁそういう世界なんだと納得するとしても、輪転機
の存在というのが、一つの結末に持っていくために用意された都合のいい装置でしかなく、物語としてのリアリティさが欠如しています。輪転機の存在と、それを使えるのが、国の行く末を左右するような政治的存在になっている三國であるというのはいいとしても、何故か逆回転する機能があって、その権利が余賀に与えられるのは都合が良すぎます。

真坂木が言う「上」は、制作者自身を指している部分があり、その神的な存在に、監督あるいは脚本家が視聴者に伝えたいであろうことを直接的に代弁させてしまうというのもナンセンスですが、その内容も取ってつけたようなもので、何を言いたいのか分からないところも。「みんな正しい。世界を良くしようと戦って」、“みんな”って誰?石動や竹田崎のような人間も含むなら、あまり説得力がない。「そして世界はよりよくなった」、どこの世界のお話のことを言ってるの?その後の言葉は頷く部分はあるものの、余賀の金融街は何だったのかという質問への答えにはなっていません。

Cパートの展開は、どことなく「まどマギ」を意識したのかなと思うところがあったのですが、安易なハッピーエンドにはなっていないものの、すごく中途半端で、何で世界がこうなっているのかという理屈付けもなく、この世界での余賀の存在はどうなったのかもはっきりしない。実在はしているけど、誰も余賀のことを知らないのか。そこをはっきりさせないから、余賀に対して同情心を抱いたり、感情を揺さぶられることもなく、余賀と同様に狐につままれた気分になるだけです。

そういえば、サトウが余賀の父は、どうにかして金融街から逃れたから、今の余賀が存在するとか言っていましたが、その真相も描かれないまま。

私は、何でもかんでもはっきりさせるべき、わかりやすくすべきと言いたいわけではなく、そこにある明確な意図や思いが伝わってこない、伝えたいことが先にありきでちゃんと物語を作ろうとしていないと感じるからで、それが出来ていたら文句はありません。まぁ、私が意図や思いを私が読み取れていない部分がある可能性もありますが、とりあえず今のところの感想を正直に書いただけで、自分の評価が絶対と思っているわけではありません。

最後に、先に挙げた「白熱教室JAPAN」は、本日土曜深夜に再放送があります。Cを評価している人にもそうでない人にも是非見ていただきたい内容なので「白熱教室JAPAN」オススメです!

ドラマ「鈴木先生」総評 鈴木先生は白熱教室入門編として最適な教材だ!

この結論、主張に持っていくために人物・展開が作られ、配置されている感や、綺麗にまとまりすぎているところがありますが(原作は違うようです)、その主張の部分については同意でき、概ね満足できる内容でした。しかし、やはり不満があるのは事実なので、ここから主だった不満を書いていきます。


重要視していた、足子先生と神田の扱いですが、足子先生のほうは安易に改心するでもなく、悪者として切り捨てられるでもない扱いでよかったのですが、個人的な恨みでしか行動していない駄目な大人という感じが強く出すぎていて、己が信じる教育感のぶつかり合いという側面が弱くなっていたので、もう少し足子先生に共感できるような材料があれば、もっと良かったと思います。神田のほうは、行動動機がちょっと拍子抜けするような理由で、神田にとっては足子先生も軽蔑すべき大人で、ただ利用しているだけ。でき婚自体をことさら悪と考えてる訳ではないと思っていたのですが、普通に仲良く共謀していて、違和感がありました。原作について少し調べてみたら、どうやら足子先生をかなり尊敬しているようで、それなら納得なんですが、ドラマでは大人全般に対する不信感があり、感受性が高い人物だと感じたので、あれ?と思ってしまいました。なので、そのことをはっきり描いて欲しかったです。


次はもう一つ重要視していた鈴木先生の描かれ方と、鈴木先生の涙のわけについて。足子先生の「ばっきゃろー!」と神田のしたこととその理由を聞き、突然涙を流しました。その理由は、神田のシグナルを自分が見逃していたというこのとに気づき、まだあの頃と何も変わっていないんだと悟ったからだと、私は思います。その意味では、完璧な教師として描かれてないと言えますが、ちゃんと反省し、成長して、正しいと思える主張をするので、多くの人が共感、尊敬できる人物、教師になっています。その意味で言えば、数ある学園ドラマと同じで、特定の教師が宗教性をもって崇められるような存在になる図式になっていると言えるかもしれません。しかし、このドラマは理想の教育論があるだけで、そこへ導く方法論や指導論はほとんど描かれていませんし、鈴木先生自身も持っていません。それがこのドラマの良いところであると同時に鈴木先生の欠点であると私は思います。

鈴木先生は、小川に頼っていて、自身も言うように問題が起こってからでしか何かできない、心の変革に繋がる指導が出来ておらず、基本行き当たりばったりで、そのことに反省の弁を述べつつも、彼女ができて浮かれ気分になり、他の先生のヨイショに気をよくしたりして調子に乗っている感じがあり、状況を変えるために何かしたり、必死に考えたりという努力をしているようには見えませんでした。そういう悪い面が最後の涙により許されたというか薄らいだ感じになっているので、最後は神田の告白で終わるという形のほうがよかったのでは。更に言えば、鈴木先生寄りに描かれていることにより、鈴木先生のやっていることや発言は全て正しいと思わせてしまうような構造になっていることは事実だと思うので、鈴木先生の内面描写は極力抑え、生徒を中心にした視点にして、視聴者を生徒と同じ立場に置くという構成であったほうが、より良かったと思います。


鈴木裁判の内容の是非については、別途議論の対象にもなると思いますが、タイトルに書いた通り、鈴木裁判は白熱教室的な対話型議論の入門編として最適な教材になっていると思うので、多くの人に見て欲しいと、自信を持って言える作品であります。子どもには、セックスの話中心なので見せにくい、変な風に影響されないか心配と思われる方もいるでしょうが、ただ見せるのではなく、一緒に見て話し合うことが重要で、そこで衝突があっても、鈴木先生も言ったようにお互いの価値観の共有を図れば、子どもが知らぬ間に変な風に影響されて不幸になってしまうなんてことを防げるはずです。7話で鈴木先生が示した公式の“体験”は、必ずしも実体験である必要はなく、この作品を見ることも体験の一部だと思います。

「鈴木先生」9話 感想

なんかドラマ的な作られた展開という感じが強くて、いつもより引いた形で見てしまいましたが、鈴木先生が足子先生に追い詰められるという意味では、半分予測が当たっていたし、裁判の前段階の生徒同士のやり取りは見応えがあり、そこで再び引き込まれました。

最終回で解消されるといいんですが、鈴木先生の立ち位置が中途半端でもやもやする部分があります。

私としては、鈴木先生は一見正しくて立派なことを言っているけども、そこここに欺瞞的な行動をしていて、自らがこの事態を招いたようなものと思うので、あまり同情ができません。もちろん、そういう面も描かれている部分はあるのですが、あくまで鈴木先生寄りに描かれているので、悪い面が隠された演出になっていると感じる。

その欺瞞を足子先生や神田が暴くという展開になると思っていたんですが、ここまでの展開では、単に歪んだ性格の嫌な奴が、何の非もない鈴木先生を貶めているだけのように受け止められるような感じになっていて、二人が単なる悪役になってしまっています。足子先生は置いておくとしても、神田はなぜこのような行動をとるのかが全く見えず、共感もできないので単なる悪役性を強めています。最終回では、その辺がきちんと描かれて、単なる悪役が鈴木先生の見事な指導によって改心するみたいな展開にならないよう望みます。

「鈴木先生」8話 感想

今回は、鈴木先生の世俗的なところがより強調されて描かれているように思えた。世俗的な付き合いや社交みたいなにものに対する、馴染めなさや、ある種の嫌悪感を感じている、足子先生や神田を最終的にどう扱うか、導くかが、一つの重要な評価のポイントになります。

にしても、30歳はゆうに超えているであろう足子先生の、花の女子中学生みたいな行動と態度は、ちょっと漫画的というか、キャラクター感が強くて不自然さを感じる部分があった。