「鈴木先生」7話

いやはや、期待と予想と全く違っていましたw

今回の指導から、鈴木先生自身のセックス感もエゴであるということを自覚しているようなので、私が前回指摘した問題は一応クリアーされましたが、納得のいかない部分はまだあります。それは、河辺が生でしたことについては何も問われなかったことです。丸山さん風に言えば「竹地に責任が問われて、誘った河辺に責任が問われない事情ってなに?」という感じか。作品全体を通して女性に甘いというか、過度に特別視されている印象があり、どこか違和感を覚えます。

今回の指導に関しては、やはり鈴木先生の恋愛感はうぶというか見方が一面的すぎる感じがしますが、概ね共感できました。ただ、一つ引っかかったところは学習率の話で出た「立派で素敵な大人になればいいんだ」という言葉。鈴木先生の言う “立派で素敵な大人”とは何なのか。ここが今後はっきりしてくれるといいなと思います。

鈴木先生が現在の教育方針を目指すに至ったエピソードについては、正直シチュエーションも含め、丸山の心情については、いまいちピンときませんでした。

自分の経験では、掃除の時間は帰りのHRの前にあり、先生が見回りをして最後にチェックを受けていた記憶があるので、今回の件については、鈴木先生が反省すべきことは、簡単にサボれるような仕組みを問題視しなかったことじゃないかと。また、丸山の行動や思考が自然と全肯定されていて、最終的にサボることが正解みたいな感じになっていたのも違和感があり、あさみの霊的干渉のシーンも感動もできず逆に冷めてしまいました。

ここから得た鈴木先生の問題意識は理論的には判るけど、心情的には経験がないこともあってかピンとこなかったし、目指すクラス像が具体的にどんな状態のものかもまだはっきりしませんでしたが、それは今後に期待。

「鈴木先生」6話感想 1話の鈴木先生の指導との対比、足子先生の役割について

1話と6話の鈴木先生の岬と竹地に対する指導は対になっていて、1話は恋愛や性に対して大人な態度をとる岬に対して、実はまだ精神年齢の低いガキだったと諭させたましたが、今回はその逆で、竹地を大人のように扱い覚悟を問い、結果竹地はそこまで考えておらず、母親にこの子はまだ精神年齢の低い子どもだと言われました。

ここには鈴木先生の生徒に対する接し方の違いも潜んでいます。1話では自分の考えを述べつつ、岬にも意見を述べる機会 を与えており、あくまでも生徒優先で対応しました。しかし今回は、自分の主義から論理を組み立て、半ば竹地をそこに押し入れるような形で指導を進めており、自分の論理が優先 していたように思います。


今回の鈴木先生のセックスに対する考え方は、一理あると思いますが、形を変えた処女信仰のようにも思います。鈴木先生の言う覚悟は自分だけ持っていればいいというものではなく、相手にも覚悟を求めることに繋がるもので、相手の理解も必要です。今回の鈴木先生の論理の弱点はそこにあり、それがどう展開に絡んでくるのか。こないのか判りませんが、くるとして、ここで足子先生の役割の話に繋げて、展開予想をしてみます。


足子先生は鈴木先生の教育理念を否定し、ことある毎に嫌みったらしい突っかかりをしてくる、嫌な存在、敵として描かれています。言い換えれば、鈴木先生の魅力を上げるような引き立て役として存在しており、視聴者側に「鈴木先生は正義・足子先生は悪」のような図式を出来あがらせます。この図式は変わらないものと思っていましたが、今回の最後に足子先生が出てきたことにより、この単純な二項対立を崩してくれるのではないかという期待が生まれました。次回、足子先生が、私が前述で指摘した論理の弱点を突き鈴木先生を追い詰めるような展開 を期待したいと思います。

鈴木先生 5話

方向性がよく判らなくなってきた。恋愛話中心のネタ教育ドラマとして見ればいいのだろうか。

それは一旦置いといて、内容について短い感想。

「好きな人が誰だっていいじゃない!」というけれど、このまま小川の好きな人が明かされず終わることはないのでは。そもそも身近にいるのか、あるいは実在する人なのか。

あと、作品の根本に関わるであろうことで、小川の考え方と扱われように引っかかりと危うさを感じるところが。今後の伏線だったらいいけど、鈴木先生の思い通りに、小川が神様として機能してクラス改革成功という展開だったら、ちょっとがっり。

まどかは魔法少女になるべきだったか 魔法少女まどか☆マギカを批判的に見る その2


本題の"まどかは魔法少女になるべきだったか"について考えるにあたり、まずまどかの願いをを確認しておきますと、全て魔女を生まれる前に消し去って、絶望から魔法少女を救うことです。この願いに至った経緯ですが、QBに、魔法少女が存在しなかったら今の世界はなかったかもしれないと言われているのと、これは解釈によりますが、これまでの魔法少女の願いと決意まで無駄にしてしまうので、魔法少女自体をなかったことにすることは出来ません。もっといい願いはなかったのかを考えると、願いを増やすという反則技以外考えつかず、その意味で言えば筋はちゃんと通っています。しかし、私はまどかの行動に違和感があり、納得できませんでした。


まどかは何故かよく判りませんが、自分を何の取り柄もなく役にたたない人間だと卑下していましたが、QBに"君は最強の魔法少女で宇宙の法則をねじ曲げられる、万能の神になれる"と、ご親切に後のまどかの願いに繋がるようなヒントめいたことを言われ、自分にも出来ることがあると、自己犠牲的な行動に至りました。


結果として、まどかは成長したと言えるかもしれませんが、殆ど導かれたようなものであり、半分流されて最後の行動に至った感じが強くしました。魔法少女を救いたいという思いは尊いかもしれませんが、それを成し遂げさせたのは忌むべきQBです。また、自己犠牲が伴い、そこに自己破滅が含まれているところに引っかかりを感じます。私はまどかは間接的な自殺、逃避をしたとしか捉えられませんでした。

与えられた力によって神的な存在となり、魔法少女を救うという使命を得たことにより、一人の人間としての無力さを感じずに済むようになり、自分が一つ上の存在として善いことをしているという実感が得られることが出来る。更に、ほむらが自分のことを覚えていてくれると信じている。この点から言えば、まどかは不幸な結末を迎えたわけではなく、むしろ魔法少女になることによって救われた。まどかは意識していなかったとしても、半分自分が救われるために魔法少女になったようなものと私は受け止めました。


まどかが救われたとすると、ほむらは目的を達成したと言えるかもしれませんが、ほむらがどう捉えているかは不明瞭。


ほむら側から見ても、まどかの喪失を受け入れて成長したかと思えば、"まどかが救おうとした世界だから、救いようのない世界でも闘い続ける"と、結局、まどかありき、依存したままで成長しておらず、変わったのは、物理的に強くなったのと、性格だけです。

この作品の登場人物は、通底して物の見方がどこか自己完結的で、達観して冷めていて、"私"や未来を諦めている感じがし、結末を含め作品全体に絶望感が漂っている感じを受けました。なので、この物語を感動的だとか、いい話などとはとても思えなかったのです。


ここからは、こういう展開なら良かった、感動できたのにという話にもなりますが、希望を抱くことが間違いというQBの言い分を否定したまどかはどうするべきだったか、どうして欲しかったかについて書いていきます。


それは、QBのやっていることの否定と魔法によって願いを叶えることの否定です。この作品では、魔法によって願いを叶えることの是非については一切語られておらず、それはこの展開のための伏線かと思っていたのですが、全然違ってがっかりしました。“QBが創ったルールの上で願いを叶えるなんてそもそも間違ってる。エネルギー問題が有る限り、これからも魔法少女が生まれ続けるけど、きっ別の解決方法がある。私がそれを見つける、なんとかしてみせる。”というような、いわゆる「人間なめんな!」宣言をして欲しかったのです。何でもありが認められるというなら、そこでQBの感情が芽生え、あるいは他の何らかの力が働いて、今までのルールとは違う魔法少女になり、ワルプルを倒し、その後は安易にまどかの新しい力により問題は全部解決なんてせず、変身はこれ一回きりだったとか、変身できても根本的なルールは変わらず、まどか(感情が芽生えたQBが一緒でも可)は闘い続けて新しい道を探るという展開なら十分バランスの取れた結末になると思いますし、これこそ王道的で、更に続編が作りやすい展開だと思います。

この作品がやったことというのは、あくまで魔法少女というお約束的なフォーマットの中で魔法少女という存在を無条件的に肯定しただけです。


しかし、ここで考えなければいけないのは制作者が、私が考えたような展開も念頭に置いたうえであえてあの内容にしたかどうかということです。これについては、はっきりとしたことは言えないのですが、私が読んだインタビューで判断する限りでは、前記事の冒頭の断り書きにも書いた通り、この作品は何か特別な思いをこめ全身全霊をかけてつくったとか、時代性を反映させたとかいうことはなく、岩上プロデューサー発信で、その中で虚淵氏が依頼を受け、視聴者に楽しんで貰えるような作品を作ろうとしただけではないかと思います。先月号のアニメージュのインタビューでは、新房昭之監督は虚淵氏の構想について、「正しい少年漫画的な魔法少女ものと感じた」と語り、それを受け虚淵氏は「周りを見ていなかったというのもあるかもしれないが、自分としては捻ったつもりはない。それが反響を呼ぶというのは時代が一巡りしたからかもしれない」と語っています。

では、自分が感じた作品全体に漂う絶望感みたいなものは何なのか。この作品は、脚本の虚淵玄ありきのもので、意識的か無意識的か分かりませんが、虚淵氏の現実感や考え方のようなものが反映されているのか。しかし、私はこれまで虚淵氏のゲームをプレイしたこともなければ、脚本を担当したアニメをちゃんと見てこなかったので、これ以上語りようがありません。


ここまでは純粋に作品の物語についての個人的な感想です。環境分析的な見方(例えば、ほむらをプレイヤー視点で捉えたり)をすれば、また違った様相が浮かんでくるかもしれませんが、私はそういう批評を読みたい欲求はあるものの、自分で分析をしたいとはあまり思わないし、そこまでの知識がないので、大層に論じられません。自分が気になるポイントとしては、特に捻られた部分のないこの作品が何故ここまで受け入れられたのかということで、オタク心をくすぐるような仕掛けを盛り込んだ娯楽作として優れていて、虚淵氏が言うように時代が一巡りしただけなのか。


個人的には、そういう面もあるかもしれないと思うけど、どういう層なのかは判りませんが、一部に特別なものとして受けとめられ、語られているので、そう単純なことではないような気がします。だとしたら、この作品の何が一部のオタクに特別性をもたらす要素となっているのか。時代性みたいなものが関わっているのか。そんな分析が今まで出てきてないように思うので、誰か書いてくれないかな。と、投やりなことを言って終了します。

まどかは魔法少女になるべきだったか 魔法少女まどか☆マギカを批判的に見る その1


始めに断っておきますと、私にとってこの作品は、感動もしなければ、何か特別な思いを抱くものではありませんでしたが、娯楽作としてはよく出来ていると思いますし、それなりに楽しめました。また、制作者側もヒットを狙ったというわけではないかもしれませんが、インタビューを読めば判る通り、岩上敦宏プロデューサー主導で話題性を狙って計算された作られ方をしています。

娯楽作として作られたものに批判的な見方をするというのは、普段あまりしないのですが、様々な批評などを見ていまいち納得できない部分があったりしたので、それは何故何だろうと考えたことを書いていきます。


本題に入る前に、全体を通して気になっか箇所や疑問を箇条書きにしていきます。

  • 杏子の生い立ちの話がリアリティがあるようでない特殊設定すぎて共感し辛い。杏子が正しいという父親の訴えようとしついることが何なのかぼんやりしすぎているし、魔法少女であることがバレた説明がなく、展開のための設定という感じがしてしまう。
  • 感情のないインキュベーターが何故感情をエネルギーに変換するテクノロジーを発明至ったのか謎。感情が理解できなければそれをエネルギーにしようといい発想が出てこないのでは?QBには魔法少女の力の大きさが判るようなので、感情が出す何かを感知する特殊な能力があるようですが。11話でQBが「僕たちの文明は感情という現象は稀で、精神疾患でしかなった」と補足していましたが、感情が無ければ精神疾患という概念も存在しないはずで、まどかに判るように説明したとしても、インキュベーターがどう感情を捉えてきたかがあいまい。
  • なぜ少女でなければいけないのか理由付けが弱い。QB曰わく、第二次成長期の少女の希望と絶望の相転移が最も効率よくエネルギーが集められるということですが、それだけの説明では納得できません。わざわざ言及するからには、オタク的お約束や商業的な意味を超えた理由付けが欲しい。
  • 魔法少女(QB)がいたからこそ今があるていう理屈がいまいち納得できない。魔法少女の一部が歴史の転機をもたらしたというのは理解できるとしても、魔法少女が生まれなければ今でも洞穴に住んでいたかもとなると理解ができません。かもしれないとは言っていますが、それに対してまどかは何も思わなかったのか不思議。また、杏子が等価交換の法則めいたことを言っていましたが、魔法少女というシステムがある世界が現実に我々が知っている世界と同じなのもどうなんだろうという部分も。
  • 有史以前からQBが魔法少女を生んできたということですが、そこまで昔だと人間の感情というのは今より複雑ではないはずで、それほど大きなエネルギーを生み出さないのでは。これも少女が特別な存在である理由が薄くなる一要因。
  • 過去にほむらやまどかのような魔法少女は現れなかった?
  • まどかにそこまで肩入れする理由含め、ほむらの本気度がいまいち感じられない。作中で提示されたループ回数は5回。実際それ以上しているとしても、作中で提示されたほむらの行動は、自分の話を1回信じて貰えなかっただけで、自分一人で闘う決意をし、なぜかついでにイメチェンして夜中にまどかの部屋の窓外に、ぬっと現れ、まどかからしたら訳の判らない忠告をするという少し笑ってしまうような行動をしていて、本気でまどかを救おうとしているとは思えない。
  • ほむらは、まどかを救えなかった?QBがどうやってもまどかの運命を変えられない的なことを言っていますが、果たしてそうなのか。ほむらがやるべきことは、まどかたちに自分の言うことを信じてもらい、協力してワルプルを倒すことです。QBの妨害を受けるかもしれませんが、未来から来たということは、初対面で知っているはずのないこと、何を願ったかなどを話せば信じて貰える可能性があります。ただ、ここでくせ者になるのが並行世界という設定で、それぞれの世界の人物背景や社会が微妙に違ってら難しくなります。その辺はあまりちゃんと描かれておらず、どう捉えてもいい感じになっているのでなんとも言えません。(ちなみにまどかは、一つの世界だけでなく、全ての並行世界の魔女を消し去ったようですが、まどかが魔女化して滅亡した世界は、まどかの存在が消えたことで滅亡を免れがれたのだろうか。)話を戻して、ソウルジェムが魂から出来ていることは自分で証明してみせればいいので信じさせることはできるはずです。これらのやるべきことをやっても、うまくいかず今の状態なら判りますが、そういう描写がないので説得力に欠ける。
  • まどかが願いを叶えた後のマミと杏子、さやかとの精神世界的な中でのやりとりへの導入が上手くない。キャラの心情の説明のために入れました感が強くあり、冷めてしまった。ここまで親切的にする必要があったのだろうかと思います。
  • まどかが世界を作り替えているところを、何でほむらは月みたいなところで客観的に見れるの?QBが「君は時間を超える魔法の使い手だったね」と説明していますが、ほむらは時間を止めることと、特定の時間に遡る能力しか持ってないはずで、時空間を超えるのは単純に?理屈を超えたことが起こっているというなら、QBに理屈を説明させる必要はなかったと思います。
  • キャラの言動にバックグラウンドが感じられず、自然に滲み出てきたものというより、作者が展開、仕掛けありきで言わせている感じが強く、キャラが駒として機能している部分がある。

本題に関わらない話題は以上ですが、長くなってしまったので、本題は後日更新致します。

鈴木先生 2話

面白いけど、少し話の持っていきかたに強引さを感じるところも。あと今回の内容にはあまり関心がわかなかった。

マナーについては、注意して心が狭いとか思われるのが嫌だったらそもそも気にするのが間違いで、鈴木先生の解決の仕方では、出水は今回とまた同じような方法を繰り返してしまうのではと思った。

鈴木先生は新たな教師・教育ドラマの金字塔に成りうるか

生徒が起こした事件を解決決するという教師ドラマに、ミステリー・刑事ドラマ的形式を入れていて、視聴者に謎を推理させるように、鈴木先生はどう対処するのか、自分ならどうするかを考えさせるような作りになっていて面白い。

また、ゲーム的構造も持っていて、鈴木先生=プレイヤーで、目的は生徒全員の心の革命。その間に生徒が起こす問題=イベントが起こり、どの選択肢を選べば解決し、目的を達成できるか悩む。

人生はゲームみたいなものという点からいえば、わざわざ指摘するまでもないかもしれませんが、この作品はゲーム的な面を意図的に強調した造りになっていると思います。

ここで、このドラマのキャッチコピーになっている「正解は誰も教えくれない」について考えると、今のところドラマでは刑事ドラマよろしく、鈴木先生は正解を出し事件を解決してしまいます。これでは、キャッチコピーと矛盾するではないかということになりますが、現実そう簡単ではありません。仮に今回の件と同じ問題に直面したとき、鈴木先生と同じ対応をすれば必ず丸く収かまるかといえば、そんなことはなく、人が変われば対処の仕方も変わるはずです。いわばドラマ的ご都合主義により作品内の問題が解決したというだけで、現実は私たちがその都度考えなければいけません。そのことからすると、「正解は誰も教えてくれない」というのはドラマ内の鈴木先生の状況にも当てはまりますし、私たちにも当てはまります。

それを強く視聴者に自覚させるためにはドラマ的ご都合主義展開を壊さないといけないと思います。そうしなければ、正しい教育のあり方や一種の価値観の押し付け的側面が強い、そこらにある教師ものドラマと同じになってしまいます。

まぁキャッチコピーとあまり関係なく、まだよく判らない鈴木先生の言う心の革命が主題になる可能性もありますし、まだ1話なのになんでこんなことを書いてるんだと今更思いましたが、今後の展開を強く楽しみにしています。