まどかは魔法少女になるべきだったか 魔法少女まどか☆マギカを批判的に見る その2


本題の"まどかは魔法少女になるべきだったか"について考えるにあたり、まずまどかの願いをを確認しておきますと、全て魔女を生まれる前に消し去って、絶望から魔法少女を救うことです。この願いに至った経緯ですが、QBに、魔法少女が存在しなかったら今の世界はなかったかもしれないと言われているのと、これは解釈によりますが、これまでの魔法少女の願いと決意まで無駄にしてしまうので、魔法少女自体をなかったことにすることは出来ません。もっといい願いはなかったのかを考えると、願いを増やすという反則技以外考えつかず、その意味で言えば筋はちゃんと通っています。しかし、私はまどかの行動に違和感があり、納得できませんでした。


まどかは何故かよく判りませんが、自分を何の取り柄もなく役にたたない人間だと卑下していましたが、QBに"君は最強の魔法少女で宇宙の法則をねじ曲げられる、万能の神になれる"と、ご親切に後のまどかの願いに繋がるようなヒントめいたことを言われ、自分にも出来ることがあると、自己犠牲的な行動に至りました。


結果として、まどかは成長したと言えるかもしれませんが、殆ど導かれたようなものであり、半分流されて最後の行動に至った感じが強くしました。魔法少女を救いたいという思いは尊いかもしれませんが、それを成し遂げさせたのは忌むべきQBです。また、自己犠牲が伴い、そこに自己破滅が含まれているところに引っかかりを感じます。私はまどかは間接的な自殺、逃避をしたとしか捉えられませんでした。

与えられた力によって神的な存在となり、魔法少女を救うという使命を得たことにより、一人の人間としての無力さを感じずに済むようになり、自分が一つ上の存在として善いことをしているという実感が得られることが出来る。更に、ほむらが自分のことを覚えていてくれると信じている。この点から言えば、まどかは不幸な結末を迎えたわけではなく、むしろ魔法少女になることによって救われた。まどかは意識していなかったとしても、半分自分が救われるために魔法少女になったようなものと私は受け止めました。


まどかが救われたとすると、ほむらは目的を達成したと言えるかもしれませんが、ほむらがどう捉えているかは不明瞭。


ほむら側から見ても、まどかの喪失を受け入れて成長したかと思えば、"まどかが救おうとした世界だから、救いようのない世界でも闘い続ける"と、結局、まどかありき、依存したままで成長しておらず、変わったのは、物理的に強くなったのと、性格だけです。

この作品の登場人物は、通底して物の見方がどこか自己完結的で、達観して冷めていて、"私"や未来を諦めている感じがし、結末を含め作品全体に絶望感が漂っている感じを受けました。なので、この物語を感動的だとか、いい話などとはとても思えなかったのです。


ここからは、こういう展開なら良かった、感動できたのにという話にもなりますが、希望を抱くことが間違いというQBの言い分を否定したまどかはどうするべきだったか、どうして欲しかったかについて書いていきます。


それは、QBのやっていることの否定と魔法によって願いを叶えることの否定です。この作品では、魔法によって願いを叶えることの是非については一切語られておらず、それはこの展開のための伏線かと思っていたのですが、全然違ってがっかりしました。“QBが創ったルールの上で願いを叶えるなんてそもそも間違ってる。エネルギー問題が有る限り、これからも魔法少女が生まれ続けるけど、きっ別の解決方法がある。私がそれを見つける、なんとかしてみせる。”というような、いわゆる「人間なめんな!」宣言をして欲しかったのです。何でもありが認められるというなら、そこでQBの感情が芽生え、あるいは他の何らかの力が働いて、今までのルールとは違う魔法少女になり、ワルプルを倒し、その後は安易にまどかの新しい力により問題は全部解決なんてせず、変身はこれ一回きりだったとか、変身できても根本的なルールは変わらず、まどか(感情が芽生えたQBが一緒でも可)は闘い続けて新しい道を探るという展開なら十分バランスの取れた結末になると思いますし、これこそ王道的で、更に続編が作りやすい展開だと思います。

この作品がやったことというのは、あくまで魔法少女というお約束的なフォーマットの中で魔法少女という存在を無条件的に肯定しただけです。


しかし、ここで考えなければいけないのは制作者が、私が考えたような展開も念頭に置いたうえであえてあの内容にしたかどうかということです。これについては、はっきりとしたことは言えないのですが、私が読んだインタビューで判断する限りでは、前記事の冒頭の断り書きにも書いた通り、この作品は何か特別な思いをこめ全身全霊をかけてつくったとか、時代性を反映させたとかいうことはなく、岩上プロデューサー発信で、その中で虚淵氏が依頼を受け、視聴者に楽しんで貰えるような作品を作ろうとしただけではないかと思います。先月号のアニメージュのインタビューでは、新房昭之監督は虚淵氏の構想について、「正しい少年漫画的な魔法少女ものと感じた」と語り、それを受け虚淵氏は「周りを見ていなかったというのもあるかもしれないが、自分としては捻ったつもりはない。それが反響を呼ぶというのは時代が一巡りしたからかもしれない」と語っています。

では、自分が感じた作品全体に漂う絶望感みたいなものは何なのか。この作品は、脚本の虚淵玄ありきのもので、意識的か無意識的か分かりませんが、虚淵氏の現実感や考え方のようなものが反映されているのか。しかし、私はこれまで虚淵氏のゲームをプレイしたこともなければ、脚本を担当したアニメをちゃんと見てこなかったので、これ以上語りようがありません。


ここまでは純粋に作品の物語についての個人的な感想です。環境分析的な見方(例えば、ほむらをプレイヤー視点で捉えたり)をすれば、また違った様相が浮かんでくるかもしれませんが、私はそういう批評を読みたい欲求はあるものの、自分で分析をしたいとはあまり思わないし、そこまでの知識がないので、大層に論じられません。自分が気になるポイントとしては、特に捻られた部分のないこの作品が何故ここまで受け入れられたのかということで、オタク心をくすぐるような仕掛けを盛り込んだ娯楽作として優れていて、虚淵氏が言うように時代が一巡りしただけなのか。


個人的には、そういう面もあるかもしれないと思うけど、どういう層なのかは判りませんが、一部に特別なものとして受けとめられ、語られているので、そう単純なことではないような気がします。だとしたら、この作品の何が一部のオタクに特別性をもたらす要素となっているのか。時代性みたいなものが関わっているのか。そんな分析が今まで出てきてないように思うので、誰か書いてくれないかな。と、投やりなことを言って終了します。