宮台真司氏のアニメ観。

http://www.miyadai.com/index.php?itemid=413
宮台さんのパトレイバーについてのインタビューを読む。
とりあえず、僕の疑問に思っていたことの答えが分かりました。宮台さんはあえて今のオタクを森川嘉一郎の「オタク=ダメ志向」を使っています。よくよく考えれば、オタク第一世代ですもんね。

それにしても、宮台さんはアニメのことを良く分かっていらっしゃる。留意しておきたい発言をピックアップ。

絵は現実よりも精細度が劣ると考えられがちです。ハイファイに対してローファイ。本物に対してまがい物。完璧に対して欠陥。ところがCG技術の発達でそうも言えなくなった。現実よりも遥かにハイファイな表現さえ可能になります。実写なら光学的につぶれちゃう部分まで人工絵で描き込めるとかね。

沖浦啓之さんのように本物より生々しい動きを描くようなアニメーターもいますが、イノセンスのCGは凄かったですね。劇場クラスのものにならないと大抵のアニメのCGはしょぼさが目立ちます。最後のほうにもふれられていますが実写と同じように特撮の代わりの機能しか果たしておりません。

十年以上前に宮崎駿さんと話したのですが、面白い内容だったんです。彼は生粋の天才アニメーター。だからアニメーターにしか表現できない世界に自覚的です。彼は「実写では描けない過激な飛行視線や風をアニメーションなら描ける」と言うんです。牧草地を低空でグライディングすれば風にあおられて草がなびくとか。現在ではCGで追いつけるようになったけど、そういうフィルム効果ならざるアニメ効果を活かすために物語を考えるという順序です。現に宮崎さんはエコロジストでも何でもない。
あと、実写と違い、表情が単純な平面絵だからこそ感情移入できるのが、アニメだと。言い換えれば、感情を自由に読み込める。だからアニメなのに顔に影やシワを描き込むリアリズムに宮崎さんは反対する。こうしたアニメ効果、すなわちメディアとしての物質性をとことん使い尽くしながら、その物質性に相応しいメッセージを載せる。アニメーターはこうでなくちゃいけない。

表情が単純だからこそ感情移入できる。アニメを見るときに表情にも注目したいですね。

僕ら原新人類世代にとって、アニメやマンガの表現や享受は、「社会の中での自分の立ち位置をどう組み込むか」ということでした。アニメやマンガを見た後に現実の手触りが違って感じられる作品こそが、高く評価されたのです。

時かけのくだりより、細田守氏の演出について)個体発生は系統発生を摸倣するというか。アニメでしか描けない光や風や疾走を利用して「思春期の少年少女にしか見えない風景」を描くのです。この手法は、『太陽の王子ホルスの大冒険』(69年)で、場面設定という聞き慣れない役目で参加した宮崎駿さんが見せたやり方ですね。これと、同じくジブリ近藤勝也さんが監督した『海が聞こえる』(93年)の学校的風景の描き方を、合体させるとアニメ版『時かけ』になります。主題と完全に一致した素晴らしい演出です。やっぱり天才アニメーターの力とは凄いものですね。

僕らにとって凄いアニメと凄くないアニメの違いは、ストーリーや設定じゃない。「アニメとしての凄さ」です。

アニメに限らず映像表現の世界はとても奥深いものですね。