M2のJ−POP批評2006 第4弾 メモ

井上トシユキさんが登場

前半は宮台さんによるミスチルの「しるし」の何が良いかという解説と日本人のコミュニケーション特性について。
他者がいない痛みを書いているやつは死ね!

ネットの話。(各々の発言のまとめ)

YOUTUBEなどでUPされているものは自分の作ったものではないものが多く、これって良いよね?と言い合う事がコミュニケーションで重要視されてきている。根が深くない関係性のみで付き合うスタイルが心地よく、そこに浸る人が増えてきた。

世界の図書館化が大きな変化になる。図書館が充実してアクセスビリティ・コネクティビティが上がると新しい本を読む必要がなくなる。何もかもが横並びに自由にアクセスできるようになったら、新しいものを作っても享受される可能性は低くなり、過去のものと比較されるので新たな表現が難しくなる。
そうなれば歴史の終焉と言ってもいい。全て既知性の中に入り込んでしまう。ITの進歩は歴史の終わり、場合によっては主体の終わり・表現・古いコミュニケーションの終わりに繋がる。

従来にない新しい技法がないと楽しめなくなり、何もかもが有難味を欠いたものになる。そこに適応できない人は実体性を求め何か過激な行動に出る可能性もある。

世界の図書館が進んだときにはそれを利用する必要がある。YOUTUBEは世代間の文化伝承の伝達ツールになる。企業はYOUTUBEを宣伝に使いwin-winの関係でやるべき。マーケットの拡大に繋がる。ある程度ノイジーな場をネット上に残しておく事が必要。

ブログの炎上について。

(井上)
ネットに慣れてない人や未成熟な人がやっていること。炎上するような記事を書いてるほうも書いてるほうだが、それにコメントするやつも子供。

ネット右翼・政治的な話へ。

(宮台)
昔は断固決然的なやつがかっこよく思われたがが、今は違う。それは自意識を直接社会に投影してるように見えるから。5年〜10年のスパンで世の中は断固決然は未熟な人間の噴きあがりなんだな、というムードになっていく。それが成熟への階段の1つとなり、祭りや炎上は下火になる。

竹中平蔵氏が雇ったPR会社の戦略文書を引用。IQをITと言い間違っているが誰も突っ込まず。)

自信がないヘタレで孤立している層はネットに強いテンションでコミットする。それを吸引せよと総務省相手にネット選挙運動の解禁をロビイングしてきた。
団塊世代より下で小林よしのりのゴーマニズムで自己成長を遂げてきて断固決然的であることが社会的だと思っている層を取り込める。なぜネタバレするかというと社会的再帰性により人々が学ぶから。

(宮崎)
それは楽観シナリオ。支持している人が多いと、それに乗っちゃおうというバンドワゴン的な効果がある。それも再帰性の1つ。

(宮台)
ニコラス・ルーマンが想定していること。社会学的啓蒙とは再帰的なツールの提供。情報を開示した上で自由になれば幸せというわけではなく、自由で賢明であれば幸せになる。だけどそれでもいい。
良かれと思ってやっていることが組み合わせによっては駄目な事になる。これが社会だと分かっていれば、誰が悪者か分からないまま死ぬことがなくなる。

(宮崎)
それを言う事も再帰的。皆が善意でやっていても何一つ状況は分からない(変わらない?)。本当は出口がないかもしれないけど絶望がなければ出口は到底見つからない。
    
(宮台)
知らぬが仏という考え方を認めるか認めないかということが実存上の大きな分岐となる。(宮崎)俺は認めない。

(宮台)
僕もそう。地獄に落ちた上で幸せを希求してもらうのがいいと思う。ただ、それは押し付けない。嫌だったら僕の言説から遠ざかってください。
ただ、僕の言説にアクセスすると息抜きがなくなると思う。それでも、なおと思えばその人間は本物だ。IT化・情報化が進んでなにもかも入れ替え可能に見える中で最後に信頼できるのは、人に感染すること。凄い人に感染するって動機だけが最も輝かしく信頼できるものとして残る気がする。

(井上)
インターネットというのはあくまで検索機能でしかないなと思う。自分がコミットしたい、この人と一緒に時間をすごしたいという人をどうやって探すかというときに検索ツールとして使えるというところ。
分かったなような感じでさらに分かろうとしている人たちは大阪のおばちゃんによくいる。その人たちがネットに出てきたら混乱して面白くなるんじゃないか。

秋葉の話。

(井上)
秋葉は観光地化した。このまま駄目になっていくんじゃないか。オタクの聖地はまたどこかに移動するのではないか。

(宮台)
コミケの代表者、米澤嘉博氏が亡くなったからというわけではないが、今後コミケは縮小すると思う。目的はなんにしろ行けば祭りがあって、空間の共有がある。それは副次機能なんだけれど、本当は意味がある。というようなことが消えていくのでは。
単にピンポイントのものをコネクトして結びつける以上のものが秋葉・コミケにはある、あったんだということを言っていかないと駄目。

(宮崎)
コミケに行く人たちは単に欲しいものを手に入れるだけでなく、そこの雰囲気とか人間関係を間近に感じる事が楽しいことを体感していると思うが、それはどうなるのか?

(宮台)
そこに享受の核があるのに、それに気づいていない人がかなりいると思う。

(宮崎)
だから社会学的啓蒙が重要になるのか。君が楽しかったのは本当はこれでしょ?と。
気付いてない人も喪失したら分かる。自分たちが失ってしまったものはもう手に入らない。と。