テレビはディレクターの作品

上記の問題と少し関わる事を、岡田斗司夫さんがGyaoのひとり夜話で語っていたので掲載します。

深イイ話の裏話から始まり〜


アニメ夜話は3本連続でやったんですけど、3本ともまるっきりカラーが違うんです。収録の時はそこそこ面白かったんですけど、僕が見た限りジャイアントロボはその面白さがかなり出ている。海のトリトンは収録の時の面白さが出ずに、段取りっぽく見えた。その辺自分でも不満に思ったのでブログに書いてて、書きながら気がついたんですけど、テレビ番組ってディレクターの作品だっていうことを分かっていない人が凄く多い。


特に収録されて編集されるのもそうですし、生番組もそうです。トークバラエティとか討論番組とかは出ている出演者は話をしているんです。台本が一応あって、それを気にしてはいるんですけど、本番になると殆どの人が抜けちゃう。

岡田斗司夫はこういったじゃないかとか言われるのはその通りです。自分の言った事に関しては自分の責任なんですけども、それであってもやっぱりディレクターの作品である事は変わりは無いんです。


これを説明するのにいい例がないかなと思ったんですけど、サッカーとか野球を選手で見るか、監督で見るかということだと思う。子供の頃は監督の存在に気がつかない。昔のアニメもそうなんですけど、昔のアニメファンは作画が全てだと思っていた。監督とか演出のやっているか分かんないという時代が、1970年代前半のアニメファンだった。ヤマトとかにしても、誰が演出をやっているのかを全然考えずに、松本零士がキャラクターデザインをやってるとか、作画は誰がやってるかにしか目がいかなかった。ファンが幼い頃というのはそうなんです。現場中心主義というより目立つ仕事中心になっちゃうんです。子供が野球とかサッカーを見るときは選手中心になっちゃうんですね。センスが蹴ったとか、投げた打ったとか、そこしか見えない。それが大人になってくるに従って選手一人一人の活躍とか、伸ばし方とか、誰をどのポジションにするのか、どうやって勝つかというのは試合に出ていない監督とかフロントの差配が大きく影響している。
それどころか、監督次第で同じメンバーでも勝ったり負けたりするのが見えてくる。同じようにテレビ番組ってディレクターと司会がかなりでかいんです。テレビを見ている側の人間が思っているよりでかい。それを自分自身がテレビに出て凄い痛感しました。


アニメ夜話に関しても、司会の里さんのカラーが割と強いというのもあるんですけど、今回ディレクターが3日間とも違うんですね。なので、ディレクターによって現場のノリ優先の人と、そうじゃなくてあくまでプログラムとしてこれを話したから次はこれを入れて・・・という風な構造にこだわる人とか、色んなタイプがあるので、僕としては出ている時は3日間とも同じ程度の面白さだったものが、全く違う作品に3日ともなったのが凄い意外でした。


だから皆さんもちょっと想像力を働かせてみて、実はテレビ番組というのは、このひとり夜話みたいに全部一人でやっているものでない限り、テレビに出ている人の発言というのがその人の意見であったり、その人の責任だったりというのはあんまり考えない方がいいです。

それは、編集して前後入れ替えたりしたら、全部意味なんか変わっちゃいますし、何よりかによりその発言の前に何があって、後に何があるのか、VTRに何があるのかでニュアンスが凄い違ってくるんです。それを説明したモンタージュ理論ってのがあって、簡単に言うと、男の正面を向いた真面目な顔とスープの写真を交互に見せると、男がおなかを空かせているように見えちゃう、次に同じ男の写真と子供が死んでいる写真を交互に見せると、男の顔が悲しんでいるように見える。これが押井守とかの演出理論の基本なんです。

つまり、映像というものは個々のアニメーターや俳優が演技!演技!演技!とやらなくても、演出とかカッティングで意味が大きく変わってくるという演出理論。そういうのが、どんな映画やテレビ局の演出家の頭に叩き込まれているので、そういうプロセスを見ている人間からすると、テレビの見え方が違ってきちゃう。


深イイ話アニメ夜話もなんか釈然としないものがあるなと思いました。