M2のJ-POP批評2007 第二部「みんなの歌は無くなった?僕たちの歌謡曲論」

TBSラジオ「アクセス」の毎年恒例行事、宮崎哲弥氏、宮台真司氏による文化批評第二部のまとめです。

(宮台)
謡曲って色々なものが流れ込んでいて、どう定義したらいいか論争になっている。社会学者として言わしていただくと、歌謡曲は素材を見ても分類できなくて、受け手の問題。お茶の間でTVを囲んで、たとえ若者向けの音楽であっても家族みんなで見て団欒していた。こういう家族みんなで見るような教授形態と共に存在した歌番組の中で流れている歌が歌謡曲だと思う。90,91年に「19XX」という深夜番組がありましたが、そこで安田講堂の映像をバックにブルーライトヨコハマがかかっているのを見てその頃を知っている者は私を含めて涙するわけです。
謡曲は確かに記憶と結びつく歌だとみんな仰るけど、多分個人的な記憶が歌に結びついているのではないと思う。というのは「19XX」を見てるときに思ったんだけど、歌謡曲というのは社会的記憶と結びついていて、社会のにおいとか、こんな時代だったな〜。というようなものと結びついている。だからそれを思い出すと個人の記憶のトリガーが引かれて、ばーっ!と記憶が噴出してくるという構造がある。
そうすると、じゃあなんで歌が社会的な記憶と結びつくのだろうか?ということになりますが、それはコミュニケーションの記憶と歌の享受がものすごく一体になっているからだと思う。個人で楽しいから、あるいは自分で好きだから聴いているっていうんじゃなくて、好きだろうが嫌いだろうが家族みんなで聴いてるとか、そのことが学校や井戸端会議で話題になったとかいうことでその時代のコミュニケーションの中に歌がいつも組み込まれているという感じがあります。

(渡辺)
選択肢として楽しみが沢山あるというよりも、歌というのが希望の光になりえた時代ですよね

(宮台)
そうですね。もちろん当時は歌に限らず共通前提があって、皆がなんとなく同じ船に乗っているという感じがあったので社会的なにおいを創造しやすく、それと歌が結びついているので記憶を惹起しやすい。
ご存知のように、今日ネットでも歌謡曲的なものを前提にしてオリジナルソングを作る人が増えていて、そういう意味で言うとノスタルジーブームというのが一つ前提になってたんだけど、みんなで共通体験というのがベースにあって、それで歌を聴いたり、サブカルチャー的なものが享受するという事は心地よいな〜。等と自覚されてきているのではないか。
でもなんで若い人が記憶のない時代について懐かしむの?という疑問があるけど、それについては結構回答がはっきりしていて、記憶はないけどみんなで同じ船に乗っているように感じられた時代がうらやましい。とか、そういう時代はエキゾチックだよね。という。

(宮崎)
でもそれはそういうものを経験した人間からすると、若い子達が想像しているものと違うんだよ!もっと関係的であって、愛着もあるけど憎しみもあるみたいな。もっと複雑な感情であって単に懐かしいとは思わない。
ALWAYS 三丁目の夕日」なんかを見ると、なんともいえない恥ずかしさというか、嘘付け!って思う。

(宮台)
ALWAYSシリーズを含めてノスタルジー映画を徹底的に批判したい。まず根本的な意味論の構築の勘違いがある。若い連中が今社会を生きている時、あるいは人間関係をこなしていく時の感覚をそのまま昭和30年代に映しこんで、こうだったろうと想像している感じは、「何も知らない奴が何を言う。昭和30年代はそんな時代じゃないよ!」と言いたくなる。
しかしそれは僕らの世代にも責任があって、この時代はこうだったとか、何故こういう感動ができるかということを自分達で分析して若い人に伝える責務がある。