岡田斗司夫、キリスト教に入信か?

今月のGyaoジョッキー岡田斗司夫さんが宗教について語っていて、その中でキリスト教徒になってみようかなという風に近年本気で考えているということをカミングアウトしました。語ったことを下記に記します。

  • 神様をあまり信じてないところもあるが、それはいかんと思っている。人間は宗教を持ったほうがいいと僕は思います。それは仏教でもキリスト教でもどの宗教でも良いいんですが、出来れば成立100年以上のものが安全です。50年以内のものはまだ危険な匂いが。なんでかというと、人間って宗教みたいなもの神様みたいなものを信じないという事自体に無理があるんです。僕らは信じてないような事を言っていますが、そんなことはない。信じているものに名前を付けていないだけで、ちゃんと神様というのを実は信じているんです。自分は無信教だと思ったり、かつての僕のように何で神様がいることが信じられるの?と言ったりする人のほうが自己欺瞞なんです。
  • 島本和彦さんの漫画の中でガイファックスというのがあって、その中に凄く俗物的な男が出てくる。別の人が「愛と勇気を信じてる」というとその男は大爆笑して「君は20世紀の今になって、まだそんな非科学的なものを信じているのか!」という。僕らはそのキャラを見て笑うし、面白いと思うのはなんでかというと、キャラが極端だからで、つまり愛なんて非科学的だと言っても僕らは額面どおり受け止めない。確かに愛や勇気は非科学的だなとは絶対に思わない。そうじゃなくて、科学とか論理とか言い出す奴なんて頭が悪いよなと思っちゃう。つまり僕らは愛と勇気というものを信じてるわけですね。言い方が悪ければ、その存在というものを別に疑ったりしないし、無理矢理疑えといわれたらそっちの方がギャグじゃないのと思っちゃう。これが信心なんです。だから何かを信じるとか信仰を持つということは、そのことに関して疑問を持つとか、信じないという状態が非常識に思えることなんです。
    • そういうのが名前ない宗教で、それが日本人の中で上手く作用してきたんですけど、どんどん効きが悪くなってきているんで、今後出来れば一人一人が色んな宗教に入って・・・僕も本当に考えてるんでけど、キリスト教徒になってみようかなという風に近年考えている。
  • もう一つ宗教がいいなと思うのは、システムとして有効だからで、例えばイタリアンマフィアの人たちは残虐な事をするわけですが、でも家族愛もあるし、熱心に教会に行くし、敬謙なカトリック教徒なんです。これは矛盾しているように思えるけど、実は矛盾してない。それは懺悔というシステムがあるからです。つまり、人を殺す事もそうですが、夫に対して憎しみを持ってしまったとか、妻がいるのに浮気心を持ったとかでもいいんです。それを毎週教会に行って、神父様とか牧師に懺悔するわけです。それに対して、相手は許す許さないとかを言わず、祈りなさいと言う。
    • このシステムがあるから犯罪組織の人たちは同時に家族愛があって、同属は裏切らないと言う事が可能なんです。つまり、神の前で懺悔すれば全て許される。どんな犯罪者であっても本気で懺悔すれば、次の日からリセットされて新しい自分になる。だからと言って何をしてもいいんだと、金曜日に懺悔すればいいんだという風にはまずならない。100万人の内10人や20人ぐらいはそんなやつがいるかも分かんないけど、ほとんどは懺悔という口にするシステムで自己抑制が効いて犯罪率というのがそこそこのところで収まるんです。
    • だから宗教とか、キリスト教カトリックというのは、システムとしてかなり有効ではないかと。そういうシステム無しになかなか国民全体を統一価値観として堕落とか、お互いに傷付けあうという方向からいい方向にもっていくのはなかなか難しいので、やっぱ宗教いいなと思うんですけど。ただ、システムとして機能しているからいいというのは、あまり宗教的な考え方じゃない。だから僕が言っているのもニセ宗教みたいな考え方なのかもしれないです。
  • スティーブン・キングのペットセメタリーという小説だったと思うんですけど、その中で父親が息子に告白するシーンがあります。父親の奥さんが長い間精神障害を患っていて、それで夫や息子に対して暴言を吐いたりして、遂に死んでしまう。その葬式の後、「正直に言って、この何年間は辛かった。お母さんをずっと愛し続ける事に努力が要った。駄目かと思ったこともあった」と言うんです。それを読んだ時に僕は普通に読んじゃったんですけど、段々頭の中に染みてきて、ここに僕らが考える宗教というものの認識の浅さ、薄さがあるなと思った。僕らは宗教とかに関してよく分かってないから、愛情とか愛するという言葉も良く分かっていないんです。僕らが人を愛する時というのは、愛する事は努力する事だと絶対考えないです。少なくとも僕はその小説を読むまで考えたことがなかったです。
    • 愛というのは自然と心の中から湧いてくる感情であって、好きなんだから好きだとか、もしくは好きと思えないから仕方がないじゃないかという風に思ってたんですけど、キングがいるようなアメリカのメーン州とかの田舎のほうのキリスト教の人のものの考え方は違っていて、愛には努力がいるし、愛し続けるという継続的な努力無しには維持できない。妻が精神障害でおかしくなった。日本人はそういう時に見てみぬふりをするんです。見てみぬふりをして、相変わらずお母さんのことが好きだよと言うのが精一杯の中年男性の愛情の出し方だと思うんです。
    • キングが言ってるのは違って、人間として壊れていても愛さなければいけない。なんでかと言うと、結婚式で愛すると誓ったから、自分の妻だから、愛し続ける事が神に対する信仰の道だからだと思ってるからなんです。つまり、キリスト教徒にとっての神様というのはそんなに信じきれるものじゃないんです。
    • 僕らはキリスト教やっている人とか宗教を信じている人をどっか能天気で、世界で不幸な事があっても神様の事を信じているのんきな人達だなと思っている。日本人は彼らに比べて頭が良かったり、理性的だから神様を信じなくても生きている。そういう見下ろすような目線で宗教を見ていると思います。
    • でも、そうじゃなくて彼らだって悩んでいて、神様のことなんか毎日のように当たり前に信じれなくなる。この世の中を生きていれば神父さんであろうと牧師であろうと、毎日を生きていて嫌なことがあったり、辛い事があったり、世の中の矛盾を見るたびに、神様なんてやっぱいないんだ!と毒づきたくなるのを踏ん張って、それでも信じなきゃいけない、信じるんだと思い続ける力が信心なんです。決して心の中から神に対する愛があふれてくるわけではなければ、信仰心があふれてくるわけでもない。それが分かって、なるほどね〜!そりゃぁ、あいつら強いはずだと思いました。
    • 僕ら日本人というのは、いざとなれば自分の好きか嫌いしかないから安易にひっくり返れる。すぐにけつがまくれる。まくりやすい民族。宗教を持っている人はなんだかんだと言って粘り強いし、善い人が多いっていうのは、宗教とか信仰とか愛情というものすら実は努力して育て上げて自分達で作り上げるものだと考えてるからなんだと思ってる。やっとキングの小説を読んで、その後何年かキリスト教とか信仰に対しての尊敬が湧き上がってきて、いいものだなと思うようになりました。
  • 宗教は大多数の日本人に向かないんですけど、向かないから止めては駄目なんですよ。それが日本人のしりまくり。向かないけど信じるところが価値。つまり、俺はやっぱり彼女が出来ないとか、いたとしても女なんか信じられないと思いつつも、それでも信じてみようという努力とかチャレンジ精神を愛と言うのと同じで、それでも信じなきゃいけないんじゃないのかな?今日も信じられてよかった、明日も信じられますようにという自分の無力さ、信心の薄さというものを分かってながら次の日に希望を繋ぐ。この感じが宗教の醍醐味だと思います。それぐらい祈りというものはスリリングでダイナミックな行為。
  • これは僕の一方的なキリスト教の解釈なので、本格的に信じてる人とか研究をやっている人から見たら、岡田の言ってること全然違うと言われるかも分かんないですけど、僕は僕の言葉で掴めたから、なんとなく分かれて良かったと思っている。
  • 仏教に興味がないわけでもないからなぁ。こういう人間がシステム論、社会契約論としても、もしくは一人の人間の生きる指針とか倫理としても使えるユーティリティのあるWindowsのOSのような宗教はないもんでしょうか。それは、大統領制みたいなもんなのかなぁ。
  • かつての昭和の時代の勤勉の価値観とか、世の中そのうちなんとかなるよという楽観主義みたいなものがあるうちは、しりまくりの思想があっても日本はやっていけたんですけど、ここから先どんどん世の中が暗くなっていって、しりまくりをした方が得に見えたり、もしくは世の中で義務みたいなものを出来るだけやらずに学校で授業に出ないとか、先生の話を聞かなければ聞かないほど得をするという、内田樹が言うところの学校のシステムが崩れている状態ではどうにもこうにも立ち行きがいかなくなるような気がするので、ここらで一発、僕らのようなオタクあたりから宗教をやってみてはいかがかなと思うんですけど。何かそこら辺は面白いアニメとかが新しい思想を出してくれないかな。
  • 宗教は信念ですか?という質問に対して
    • 一言で言えば信念だと言っちゃうんですけど、こういう複雑な問題はあまり一言で言わない方がいい。複雑な問題は出来るだけブログで一ページで書けるような状態にせず、頭の中で沸点寸前の状態でずっと何年もおいておいた方がいいです。
    • 僕が今の若くて頭のいい人に持っている危険は、一ページ見開き程度とか、ブログのページの一日か二日分ほどの日記の分量でうまく語りすぎているということです。うまく語ったりできちゃうと、自分でその言葉を信じちゃう言葉の魔力が出来ちゃうけど、大事なのは疑問の状態で、これでいいのかな?という沸騰寸前のぐらぐらの状態をいくつその鍋を心の中に何年維持できるかの方が、その人間の大成というか、感性?には役に立つような気がします。