M2のサブカル批評 2008 Part.1

TBSラジオ「アクセス」で年末恒例の宮崎哲弥宮台真司、両氏によるサブカル談議が今年も放送されました。昨年に続き今年も放送を文字おこし致します。


宮台:ずっと申し上げてますが、観察するほどのことはありません。本当はサブカルの話なんてしている場合じゃないんです。政治の話です。でも、政治もサブカル化してるんで、微妙ですけどね。

宮崎:映画から社会哲学を見つめる本を最近出したんだから、映画の話とかしてよ。

宮台:映画は切り口として、ネタとして使っているだけで、僕の本は例によって映画について書いているわけではありません。

渡辺:そんな中、宮台さんが気になるところってどこだったんですか?

宮台:う〜ん。ダメになるなり方には関心があります。やっぱフラット化してますよね。政治のサブカル化もそうだし。

僕が印象的だったのは、ロフトプラスワンで何回もトークイベントをやらしてもらったんですが、昔は本当にやばい奴が集まってたんです。例えば、リストカットについてのイベントだと本当にリストカッターが集まるし、援交のイベントをやると援交少女が集まるし、とにかく当事者が集まった。でも、今は全然違っていて、ロフトに集まる人間と、朝日カルチャーセンターの講義に集まる連中と、大学の講義にもぐっている連中が全部重なっちゃってるわけです。よく言えば安全。しかし、何を論じても同じような奴が同じように聞いているという金太郎飴感があります。

逆に本当にやばい奴はサブカルにアクセスするどころの話じゃなくなっていて、そこが両極分解化が進んでいるでしょうね。

宮崎:やばい人たちというのは何処にいるの?

宮台:それは僕には見えないところにいます。基本的には。
よく言うんですけど、サブカルチャーは色んな奴を包摂する機能があるわけです。例えばオタク現象。居場所のなかった奴にサブカルチャーが居場所を与える。現実の女にアクセスできなかった奴に性愛のある種の擬似的なチャンスを与える。あるいは虫かだったらストリート系の女の子がブームだった時に、そういうのは嫌だと言う女の子に不思議ちゃんというステータスを与えたりとか、日本のサブカルというのはその繰り返しなんです。


宮崎:マイノリティに承認を与えていたというのが一つの社会学的機能だったということですね。


宮台:まず一方でとんがった方向性を打ち出して、一方でのれなかった奴に受け皿を出すという事を4回も5回もやってきているんですけども、最近になればなるほどこのサイクルは止まっています。


渡辺:つまり、とがった側が出ないから反対側も出ないということですね。

宮崎:要するに、今は皆がノれていないと思っているわけ。一体、ノれてる人誰?とんがっている人誰?という状況。

宮台:ストリートがかっこいいという観念もなくなったし、ナンパ系かっこいいという観念もなくなった。しいて言えば、全部横並びの趣味の問題となっている。そうすると日本のサブカルチャーにかろうじて存在していたダイナミズムが消えたという感じで、本当の横並びのフラット化。サブカル系と非サブカルとか、ナンパ系とオタク系とかサブカルチャーと政治という対比が全部のっぺりした感じになって、逆にいえば多くの人間が包摂されたんだけど、包摂は新しい排除を生み出すんです。
人間が横並びの括弧つきサブカル的なものに包摂された結果、それでも憂る奴っていうのは本当にきつい状況に追い込まれていると想像できますよね。それはサブカルチャーのコミュニケーションにはノってこないんで、なかなか見えないわけですね。