M2のJ-POP批評2007 第4部「2007年、サブカルチャーも終わったのか?」part.2

TBSラジオ「アクセス」の毎年恒例行事、宮崎哲弥氏、宮台真司氏による文化批評第4部のまとめパート2です。

(宮崎)
〈前回の続きから〉
だとすると興味深いのが、じゃあ一体個々の意思によって基本的には成り立っている近代社会の法制度や、政治はどういう風に変容していくのだろうか?

(宮台)
こういう変化について共感は出来なくても分析したりできる人間達はいると思う。そうするとこういう人間達は極めてコントロールしやすいので選挙や戦争などの様々な政治的な焦点においてどうやればコントロールできるかという戦略が立てられ、どんどん展開されていく。

(宮崎)
さっきSR反応(刺激反応系)だって言ったでしょ。ていうことは行動主義者のパラダイスになるということ?

(宮台)
それに近くなると思います。コンテクストフリーになっていく可能性が高い。コンテクストに依存する現象であればあるほどコントロールが難しい。

(宮崎)
行動主義心理学は一旦は廃えてしまった考え方ですが、刺激と反応の間に普通人間の内面があるわけじゃない。それはブラックボックスに入れてしまっても色々な事が操作可能になるということを実際ワトソンはこれの理論を使って広告業界で凄く成功したと言われているんです。

(渡辺)
そうすると受け手というのは洗脳も扇動もされやすいっていうことになるわけですか?

(宮台)
そうなると思う。間が持たない、だから別れるという風にして次々相手を取り替えていくという関係の中で何故死にオチが増えているのか?
これは社会学的に分析すれば簡単で、本当は一緒に生き続ければ間がもたなくなったのかもしれない存在が死ぬ事によってもし生きてればこうもできた、ああもできたという風に夢想・妄想することによって愛のガソリンを絶やさずつぎ込むわけです。

(宮崎)
死にオチで終わるというのは反実仮想的なものですよね。日本であまり出てないんだけど、ハリウッド映画って死にオチじゃなくて様々な時間の選択の中で色々な経路があり得るというような話、あるいは時間が戻ったりするというような形で反実仮想が物語的に構造化されている。結局こちら側に伝わるものが何かというと、ある種の寂寥感、時間というものに対する切なさなんですよね。これと日本の死にオチとはどう違うんだろう?

(宮台)
全然違うよ。かけがえのなさという感覚に結びつくはかなさがハリウッド映画。これは本当に切ない。

(宮崎)
要するに関係が損なわれる事によってその関係性のかけがえのなさが強調されるのがハリウッドで、日本の死にオチはそこで関係が終わってしまって完全にそこから先の想像というのが個に閉ざされてしまうわけだ。

(宮台)
死にオチって広い意味ではアキバ系の好むジャンルのようで、現実の関係性ではなくて妄想の世界で自分にとっての世界の享受可能性を作り出している感じがある。アキバ系と死にオチに涙するタイプの妄想系の形がよく似ている。ハリウッドの楽しみ方というのはそうじゃなくて、現実を生きる時の眼差しを提供している。

〈ノスタルジー映画に触れて〉昭和30年代は近くにいる人、時間が勝つんですが今の映画は死んだ人間、遠くにいる人間が勝つという構造をしている。たいていのノスタルジー映画は後者を昭和30年代に持ち込んでいる。まぁ、商品でもあるからお金を稼ぎたい人はそれをやればいいと思うけど、社会や実存をわきまえた表現をしたい人はそれをしないで頂きたい。

(宮崎)
表現だと思ってやってるんじゃないの〜?作り手として。

(宮台)
だとしたら愚昧も愚昧ですね。