M2のJ-POP批評2007 第4部「2007年、サブカルチャーも終わったのか?」part.1

TBSラジオ「アクセス」の毎年恒例行事、宮崎哲弥氏、宮台真司氏による文化批評第4部のまとめパート1です。

(宮台)
恋空については文句はあまり言いたくない。新しい感受性に新しいメディアが出てきたということ。恋空は小説も映画も総じて「ため」が少ない。普通、日本映画にしろ小説にしろ人間と人間の関係性が意味を持つ。何故意味を持つのかというと付き合いの時間が長いからで、だから期待してるけど期待通りに進まないということに耐えながらその期待のラインにまた合致したりしなくなったりってところでドラマツルギーが展開するはずなんだけど、その要素が全く無い。
どんどん展開していくところがジェットコースタームービーみたいだって言うんだけど、野島伸司の言うところのジェットコースターとは違う。どこが決定的に違うかというと、野島伸司が言うジェットコースターはまだ関係性が織り成す悲劇や喜劇が次々と展開していくことだけど、関係性の要素が無い。分かりやすく言うと、関係性ではなくて反応。僕は脊髄反射と言ってますが、その塊で出来ている。それで涙が出るっていうことが僕にはよく理解できない。でも、ケータイ小説作家達が面白い事を言ってて、「関係性を描き込まないのは何故ですか?」という問いに対して、「それをすると読者がついてこれない。読者の引き出しがあまりないから、そこで状況が描き込まれたり関係性を描き込まれると入れない。」との答え。脊髄反射的なものが積み重なると読者はついてこれないということです。

(宮崎)
話を聞いていると、数年前にやたら売れたYoshiの「Deep Love」ってのに似てると思うんだけど。

(宮台)
それは似てます。その傾向がどんどん広がっているということ。でも僕は恋空っていう映画はなかなかいいと思う。批判してる人もいるけど、戦略的にケータイ小説の今日的な意味、特徴を映画にうまく映そうととしていると思う。新垣結衣演じる主人公が本当に鋭敏で少女的な主人公だったら変なんだけどそういう感じじゃなくて、すごいどんくさい人物として演出している。そういう意味で言うとケータイ小説の雰囲気をよく分かって映画にしているのかなという気がしました。

(宮崎)
そのケータイ小説的雰囲気ってのは、その向こう側に受容者としてのケータイ小説的現実があるの? それと、ケータイ小説的な虚構というのは虚構の世界で終わっているの?

(宮台)
僕はそれを若い人に聞きましたが、自分の身に起こることとしては全く想定していないそうです。1973年の乙女チックの時代から始まった「これって私?」的な主人公が自分だとして読むという読み方ではない。でもキーワードは「共感」なんです。

(宮崎)
でも、それをとりもなおさず関係性じゃなくて反応の部分、刺激反応系だけにアクセントが置かれていくということはやっぱり現実の関係性を反映してるんじゃないの?

(宮台)
関係性を享受するという形で現実を体験しないということはあるんだと思う。色んな悲劇や喜劇を現実世界で経験する。でもそれはケータイ小説世代以前と以降だと反応している部分が違う可能性がある。そこは非常に重要な事で、だから駄目な映画が出て来た。短絡的な小説が出て来たというような反応でスルーしちゃうとちょっとまずいことになるという気がします。