なぜ人は人を殺すのか

「人生の教科書 よのなかのルール」という10年程前に書かれた本(文庫版は2005年発刊)の中で宮台真司氏が、何故人は人を殺すのかという分析をしています。
そこでは、「承認」のメカニズムが重要であると書かれており、一部引用すると

人は、他人とのコミュニケーションを通じて肯定され承認されることによって、自尊心すなわち尊厳を養っていきます。そうやって他人との社会的な交流を通じて尊厳を獲得できた人がいるとすれば、自分が自分であることにとって、他人や社会の存在は当たり前の前提になります。
そういう人にとって、他人を殺すということは、自分を殺すことに繋がります。人は、自分が自分であるための条件を自ら壊すことは簡単にはできません。だから人を殺すという選択肢を思いつかないし、人を殺していい理由を説明してもらったとしても、そういう合理性では人を殺すことが出来ないわけです。


評論家の芹沢俊介氏も同じような考え方を持っていて、秋葉原無差別殺傷事件を「宮崎勤的なもの」と評し、今後もこういったタイプの事件が増えるのではないかと予測しています。
http://www.nikkansports.com/general/news/p-gn-tp0-20080618-373367.html

あまり一緒くたに語るのは危険だと思いますが、親が憎いというキーワードは多く共通していて、親という存在が大きく横たわっています。今後、通り魔殺人事件が増えるかどうかというのは分かりませんが、過去の通り魔事件は「少年犯罪データベース 通り魔事件」にまとまっています。


宮台氏の分析に戻ります。以降分析は続き、ではどうすればいいのか?という提案がなされます。
要約すると、それは人を変えずにルールを変えようというもので、共同体的同調支援型から個人的試行錯誤支援型に教育システムを変えることと、親を頼らなくとも存分に承認を得られるような養育システムを作ることが必要だとしています。親が悪いといっても、その親を育てたのは制度や枠組みなので、システムを変えるしかないということです。

でもこれは、少年期にどういう人格形成をさせればいいかというもので、承認を得れずに青年・大人になって孤立している人をどう救うかは大して書かれていません。そこで重要になってくるのが、宮台氏の某全国紙に掲載されるはずだった秋葉原通り魔事件のコメント*1にある社会的包摂性で、孤立している人間を社会でどう受け止めるかということが今後の課題になりそうです。

コメントにある

成績よりも友達がいないことを心配しない大人たちのダメさに問題を感じる。

というのは端的過ぎて厳密な意味がよく分からないんですが、子供のときに友達がいなかったらは確かに心配した方がよろしいでしょうが、友達は必ずしも必要ではないという考え方もあって、そういう大人にまで友達がいないことを心配してあれこれ言うのは見当違い。しかし、友達がいらないという人でも仲間、理解者は必要で、どうやってそれを獲得するかが肝心であると考えます。

*1:新しく更新された公共機関のために準備中の文章 第2部の中で事件についてのさらに詳しい分析がなされています。